ラテンアメリカ株投資家が知るべき最低限の歴史
2026年1月22日 14:30
ここではラテンアメリカのそれぞれの国の歴史ではなく、それに影響を及ぼした、地域全体の歴史をまとめます。
大航海時代、最初に発見されたのは偏西風や海流の関係でヨーロッパから最も到達しやすいカリブ海でした。1492年の話です。
次にヨーロッパの冒険家たちは、本当に金などの富があるのはアステカ帝国(メキシコ中部)やマヤ文明(ユカタン半島)では? と考えるようになります。1510年代の事です。
さらにインカ帝国(ペルー)には間違いなく銀があるということに気付きます。
これらの地域にはスペインが積極的に乗り出してゆきました。その理由として王権主導で、略奪型の帝国を作り、さらにカトリックの布教を行うというビジネス・モデルを持っていたからです。
対比のためにイギリスを中心として北米に欧州の人々が本格的に進出したのは1600年代であり100年近い時間差があります。(その頃までには単に銀を本国に沢山持ち帰り、銀貨の供給を増やしてもインフレを引き起こすだけで経済の繁栄には繋がらないことが理解されました。)
イギリスは、民間主導の定住、生業による地道なモデルを選びました。
スペインのやり方に話を戻せば、進出した現地にすでにある帝国や文明をそのまま利用し統治した関係で、割拠した国々へと発展しました。
南米で国土が大きい国はブラジルだけです。その理由は1494年に当時の海軍大国同士だったポルトガルとスペインが、お互いに侵略しないというトルデシリャス条約を締結、大西洋上に境界線を引き、東をポルトガルが(=いまのブラジル)、西をスペインが取るという風に山分けしたからです。当時のブラジルにはサトウキビと森林しかなく、略奪型の経営を目指すスペインにとって、めぼしい資源はなかったのです。
ブラジルが南米最大の奴隷制経済になったのも、労働集約的な大農園経営くらいしか選択肢が無かったことと関係しています。
なおヨーロッパ人は天然痘、インフルエンザなど、先住民が免疫ゼロだった感染症を持ち込みました。その結果、人口の7割が死亡するという生物学的なカタストロフィが起きました。メキシコ中部の人口は約2000万人→200万人へ、アンデス地方は約1000万人→200万人へと激減しました。その関係で征服者が来たときには王、司祭、行政、軍などが死亡もしくは崩壊した状態だったのです。
1808年にナポレオンがスペインに侵攻、フェルナンド7世が退位し、王権の正当性が消滅しました。植民地側では自治政府が誕生しました。スペイン人官僚の排除が起きました。
その後、スペインの王権が復活すると、スペインは植民地の再統合を図ります。これに反発したシモン・ボリバルが独立運動を戦ったわけです。現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマなどの国々は最初シモン・ボリバルが抱いた「大コロンビア」構想に入っていましたが、険しいアンデス山脈や密林などに国家統合が阻まれ、国民国家意識は定着しませんでした。
1800年代後半、大きな土地があり小麦、牛肉を輸出できるアルゼンチンが投資家から注目されアルゼンチン世負債、州債、鉄道などへの投資が盛んになりました。イギリスのベアリング・ブラザーズはアルゼンチン投資に深く関与していました。しかし巨大な投資額が実需を超えていた関係で政府が債務返済困難になりました。アルゼンチン債は紙くず化し、ベアリング・ブラザーズが倒産の危機に瀕しました。
なお中南米では独立は達成したけれど国家を支える制度が育っていなかった国が多かった関係で軍事政権や独裁が頻発しました。
以上のことを踏まえると中南米のことを勉強する上で理解が深まると思います。